因縁の対決
三波春夫さんが なくなられたので公式記録を調べた。
ところが そこには 世界の国からこんにちは に ついて記述がない。
それには わけがあったのだ。
万国博が大阪で開催されると決定されたとき ほとんどの新聞は
たかが大阪の地方博じゃないか 程度の扱いだったようだ
当時の新聞の縮小版を見ても その扱いの小ささに
驚いてしまう。
各新聞が万博の扱いを大きくしたのは
例のシンボルマーク差し替え事件の ころからだ。
昭和41年1月15日の 朝日新聞に 万国博への提案
一千万円のアイデア募集の記事が掲載された。
応募資格 個人 団体 グループ
締め切り 3月15日
発表 4月末 朝日新聞紙上
審査 日本万国博覧会協会関係者を含め各界から
審査員を委嘱し審査する。
発表 金賞 一点 賞状と賞金五百万円
銀賞 十点 賞状と賞金各三十万円
銅賞 五十点 賞状と賞金各五万円
佳作 百点 賞状と賞金各一万円
これには 他の新聞は勿論各マスコミも驚いた。
これでは 万国博は朝日新聞社の物になってしまう。
会場計画委員会のメンバーも自分達が すでに動き初めているのに
会場の設計まで公募するとは 何事だと怒りを隠さなかったようだ。
この問題は 第二回会場計画委員会で大問題となった。
さらに 追い討ちをかけたのが昭和41月1月26日の朝日の朝刊だった。
そこには審査委員の発表があった。
石坂会長 新井事務総長 丹下健三氏 手塚治虫氏
岡本太郎氏の名前があった。
これには もう他の新聞も黙っていられなかった。
マスコミ各社は 万国博には一切協力できないと
最後通告をつきつけた。
結果 協会は 総長の謝罪文を出し 朝日のアイデア募集は
今後協会の計画に使わないという誓約をして
この問題を終わらせるつもりだった
ところがこの問題は今後続くトラブルの導火線でしかなかったのである。
結局 朝日のアイデア募集は10104点もの応募があったが
金賞は でないまま終了した。
銀賞は14点 銅賞・佳作あわせて164点
なお 現在 大阪の中ノ島の図書館では この作品群をみることができる。
すぐれたアイデアも多く 各新聞と協力していたら 実際の計画に反映された
のではないかと思うと非常に残念である。
この事件の余韻が まださめぬ内に次の事件が起こった。
今度は 毎日新聞が仕掛けた
それが 二月に掲載された 万国博のテーマソング募集だった。
締め切りは 4月30日 賞金は 百万円
佳作二点には 十万円だった。
これが 世界のくにから こんにちは である。
応募は一万三千百九十五点。
審査委員審査委員は 西条八十氏
谷川俊太郎氏・井上靖氏など
入賞は豊中市の主婦 島田陽子さん
応募タイトルは
世界の人がこんにちは
かなり 歌詞が違うので
比べていただきたい。
一
西の国から こんにちは
東の国から こんにちは
世界のひとが こんにちは
さくらの国で こんにちは
1970年の こんにちは
二
月へ宇宙へ こんにちは
地球を飛び出す こんにちは
世界の夢が こんにちは
みどりの丘で こんにちは
1970年の こんにちは
三
笑顔溢れる こんにちは
心の底から こんにちは
世界を結ぶ こんにちは
日本の国で こんにちは
1970年の こんにちは
ところが 今度は 読売が黙っていなかった。
実は 読売も同じ企画を提出していたからだ。
(のちに 読売は統一マーク制定のクリーンヒットを飛ばすことになる。)
世界の国からこんにちは は結局公式のテーマソングには なれなかった。
しかし世界の国から こんにちは は レコード会社各社から競作された。
(このあたりは おばQ万博へ行くのコーナーをご覧ください。)
協会は 昭和43年11月にテーマソングを募集することになった
それが世界の広場でと咲いたひらいたである。
募集期間は 昭和43年9月20日〜11月30日
前者は4341通 後者は対象を小中学生に絞ったため1597通となった。
世界の広場で は陸上自衛隊員の太田かおる氏が入選
30万円の賞金を獲得。
後者は中学一年生の田島生子氏が入選
3万円の賞金と家族入場券を獲得した。
三波春夫氏の歌う姿は リベリア国の切手にもなった。
切手になった時のエピソードは テレビの徹子の部屋に三波氏が
出演された時に語られたが かなりの身辺調査が入ったそうだ。
しかし ここで もう ひとりの男が立ち上がる。
彼の名前は 村田英夫氏である。
永遠のライバルの登場である。
彼は こまどり姉妹を引き連れレコードを発売したのである。
それが 新関西新聞社選定 日本万国博覧会協会協賛の万国博音頭である。
コロムビアレコードは 振り付けを付けて発売をした。
歌詞の一部分は こんな具合だ
富士の山ほど 世界の富を寄せて招いて 店開き 見ましょ 見せましょ
暮らしの光 わけて明るい ヨイショコラ 明日の為
ちょっと エコノミックアニマル入っているかも・・・・
因みに
村田英夫氏は つくば博でもレコードを出している。
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インフォメーションセンターへ
公式記録
千里への道
幻想の祭典
朝日新聞
毎日新聞
読売新聞を
参考にさせていただきました。
朝日新聞の記事
1月15日付け
7才から84才までの
多数の応募があり
発表は遅れて
5月5日となった。
万博結婚式の
アイデアが
ある。
毎日の
テーマソング
募集記事
作曲予定の
中村八大氏
の意気込みと
応募者への
注文記事。
万博という言葉は
堅い響きなので
無理に使わず全体で
博覧会の楽しさを出して
欲しいとのこと。
締め切り前日
の夜に完成。
子供にもわかる
言葉・美しい日本語・
そして1970年という
未来のイメージを
考えながら
人類の進歩と調和を
そっと盛り込むのに苦心
されたとのこと。
リベリアの切手
万国博への
提案募集記事
当選者
発表記事
当選者の
コメント記事
つくば博の
万博音頭